アンティーク スロットマシン

今日、世界中のバーやクラブ、そしてカジノには何千台というスロットマシンが置かれています。このように身近になったスロットマシンが一体どうやって誕生したのか、あるいは背景にどんな逸話があるのか、と考えたことはありませんか?また、一部の人たちには熱狂的に愛されながらも、それ以外の人からは物議を醸し出すものとして考えられていたのはいつ頃だったのでしょう?このような疑問に対する答えを見つけるためには、スロットマシンの歴史を調べ、その起源を理解する必要があります。また、コレクター達が自分の楽しみ、あるいは鑑賞用に見ると我慢できずに購入してしまうようなアンティークスロットマシンについても、少しお話ししたいと思います。 

ギャンブルやゲームは何千年もの間余暇の過ごし方として多くの人に好まれてきました。単純な6面サイコロの起源は紀元前3,000年頃のメソポタミア時代に遡り、ギャンブルを伴うカードゲームは9世紀の中国で生まれました。現在最も人気の高いゲームの一つであるポーカーも、17世紀にはすでにペルシャで行われていたという噂もあります。時間とともにギャンブルやくじ引きゲームは進化を遂げ、毎年新しいゲームが世界中で開発されています。

また、技術の発達に伴ってこういったゲームが機械化されていったのも当然の成り行きであり、産業革命によってゲームマシンの普及が加速しました。 

そんな中、19世紀の終わり頃にあるギャンブルマシンがブルックリンのシットマン女史とピット女史の手で開発され、今日人々に愛されているスロットマシンの先駆けとなりました。このマシンの基盤となるゲームはポーカーですが、キャッシュのペイアウトはありませんでした。プレイヤーが5セント硬貨を挿入してレバーを引くと自分のハンドとなるカードが現れ、プレイが始まります。勝ったプレイヤーには、そのマシンを設置している経営者からビール一杯またはタバコ一箱がプレゼントされることもありました。

その後、サンフランシスコで車の修理工をしていたチャールズ・フェイによって、1890年代に自動ペイアウト機能を持つ最初のスロットマシンが開発されました。このマシンは「リバティ・ベル(自由の鐘)」と呼ばれ、3つのリールにはハート、スペード、ダイアモンド、それにヒビの入ったリバティ・ベルという4つのシンボルがついています。そして、リバティ・ベルが3つ揃った場合に50セントの賞金が手に入るというものでした。フェイは次々とスロットマシンを作り続け、初のドローポーカーマシンも彼の作品の一つでした。また、彼は偽の硬貨を検出できるトレード・チェック・セパレーターも開発しました。フェイはこうしたアンティークマシンの開発で大いに成功し、やがて自分の開発したマシンを、収益の半分を受け取るという契約で、様々なサロンへリースするようになりました。 

しかし、彼のゲームマシンに対する需要があまりにも大きくなり、スロットマシンの製造が間に合わないといった事態に陥るのですが、ちょうどその頃にカリフォルニアでスロットマシンが禁止されてしまいます。数年後にはなんとかマシンの製造を再開できるようになり、別の州でも需要を伸ばしていきました。また、時とともに、アンティークのスロットマシンは他の製造業者によっても製造されるようになり、その人気はサロン、バー、ボーリング場を中心に米国全土で高まっていったのです。 

その後、ギャンブルとスロットマシンに対する新たな規制が課せられるのですが、各メーカーはそれらの規制を回避するための様々な方法を考え出しました。例えば、ミルズデューイ-シカゴトリプレットのようなマシンには、シリンダー式のオルゴールが内蔵され、コインを入れると音楽が流れ出すようになっています。この音楽機能があることで、マシンで「曲を買う」ためのギャンブル行為として法律をクリアし、当時あった多くの規制を免れることができたのです。

それからの時代がフルーツマシンの全盛期ですが、現金による賞金の提供は法律で禁じられていました。オペレーターズ・ベルと呼ばれるマシンには、さくらんぼ、オレンジ、レモン、プラムが描かれており、このマシンで勝つと、自分の当てたシンボルと同じフレーバーのガムがもらえました。食品を賞品とすることで、ギャンブル法に違反せずに人気のスロットマシンを設置し続けることができたのです。フルーツマシンは大当たりとなり、現代のスロットマシンでもいまだに見かけます。